吉祥寺を散歩しながら感じ考えた言の葉の綴り
by kojimatak
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8月のお盆に居士を思う
私の購読しているメールマガジンを見ていたら「戒名と法名は同じであるのか、と言われたら、如何、答えましょう。」というのがあったので、つづきを読んで見た。
昔は仏門にはいるとき出家でも在家でも必ず受戒して戒名を貰っていたのだという。ところが中世以降、戒律を持たない宗風の浄土真宗が盛んになってきて、戒名というのはそぐわない、として法名というようになったとある。
戒律を持たない宗風というのが気になった。ウエブで検索してみたなかで「仏教マニュアル5」を見ると、「浄土真宗は在家道で教義にも 戒律 や授戒 はなく、聞法者という意味をこめて戒名を「法名」という。」とあるが、「戒名を「法名」という」というところが面白い。つまり戒名はあるのである。
ここまできて話は変わるが、突然思いだしたことがある。
宗教の中には、自ら信ずる宗教のみが真の宗教であるとし、他の宗教の存在を認めないものがあるが、人間の持つ根底的な偏向であると思う。人間が生きるということはこの根源的な偏向を正していくところになければならないと思うが、現実は多数の偏向派が偏向に偏向をもって争い、偏向を正すということの意味を探求することがない。それは自分自身の半身同士が戦っていて、自分自身というものは他の半身があって自分自身だ、ということを知ろうとする勇気さえない。このことは止むことのない、人間の持つ根源的な悲しみなのであろうか。
つづきにあった、「居士というのは、家に「居」て仏道に帰依し修行する「士」(人)、つまり在家の信者の意味です。」という説明が、戒名の説明として一番親しみ易くていいな、と私は思った。
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by kojimatak | 2004-08-11 20:08 | 思ったこと
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