吉祥寺を散歩しながら感じ考えた言の葉の綴り
by kojimatak
2004年 07月 20日 ( 1 )
生きとし生けるものの生きる思想
今朝の朝日新聞の16面の囲み記事「反時代的密語 東アジア文明の語るもの 梅原猛」を読んだ。
梅原猛は一神教と多神教の誕生について、次のように述べている。
「私は、人類は農業を発明することによって都市文明を創ったと考えるが、その農業の性質がユーラシア大陸の東と西では違う。夏に雨の多い東のモンスーン地帯には稲作農業が、雨の少ない西には小麦農業が興った。気候の違いが農業の違いになり、それが東と西の文明の決定的な違いになる。」「この二つの文明は、その農業生産の方法の違いによっても思想を異にする。小麦農業は人間による植物支配の農業であり、牧畜もまた人間による動物の支配である。このような文明においては、人間の力が重視され、一切の生きとし生けるものを含む自然は人間に支配さるべきものとされる。そして集団の信じる神を絶対とみる一神教が芽生える。それに対して稲作農業を決定的に支配するのは水であり、雨である。その雨水を蓄えるのは森である。したがってそこでは自然に対する畏敬の念が強く、人間と他の生き物との共存を志向し、自然のいたるところに神々の存在を認める多神教が育ちやすい。」
私はここまで読んで思う。一神教と多神教という対立軸に東西文明の思想を収斂させているが、果たしてそれだけなのであろうか。小麦文明と云われている黄河文明は東アジアには含まれていないのだろうか。メソポタミア、オリエント、インダス、黄河の四大文明は小麦文明と云われていたのではなかっただろうか。最近第五の文明として認められてきている長江文明は稲文明であるが、私にはまだ長江文明が黄河文明をどのように変容させているのか知ることは出来ないが、この変容の過程をぜひ知りたいと思う。
中国の「五行の配当」の中の「五穀」についてみてみると、「黍、稷、稗、朮、粟」であって、麦も、米も含まれていない。つまり、「五穀」が制定された古代中国では、麦も米も知らなかったのである。紀元10世紀頃に西域から麦の到来があり、下って周の人々は神の恵みを感じ取り、麦を神の賜物として「来」と呼んだと云われている。また「来年」というのは麦を収穫することのできる翌年を意味し、いつしか「らいねん」は翌年のことになった。黄河文明はむぎはには感謝しているが、米には感謝していないのだろうか。長江文明から賜物として受け取ったのは蚕と絹だけであったのだろうか。私には疑問が多い。
また、仏教は多神教の中から無神教として生まれたことも忘れてはいけないと思う。仏教は多神教の世界に受容されていく過程で多神教に変容しているが、宗教に対立軸を立てるならば、無神教、一神教、多神教の3軸を立てることができるのではないかと私は思う。
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by kojimatak | 2004-07-20 13:46 | 思ったこと